今作は間違いなくここ数年のクリープハイプの全てを表した作品である。
再びクリープハイプの人気が出てきてることもあり、丸くなったと思うかもしれないがそれはお門違いだ。
クリープハイプの変化は数年前から確実にあった。そしてそれがこのアルバムで明確に表出したのである。この事について考えていきたい。
クリープハイプの変化をライブでは感じることができていた。
2016年のFC限定ツアーあたりから、ワンマンにおいて明らかにファンに寄り添ってきた。それはクリープハイプ側が媚を売ったわけではない。ファンとクリープハイプ両方が歩み寄った形であった。
なぜ初めに寄り添いを感じたのがFC限定ライブだったかというと、
FCに入るだけあってクリープハイプの良いところも悪いところも分かっているファンとそのファンを信頼するクリープハイプという関係があったからだろう。
そして、このツアー以降の自ら主催のライブはどこの会場もアットホームな雰囲気に包まれていた。それが顕著に表れているのが、MCだ。MC中、メンバーの顔を見ていると笑顔が絶えない。楽しそうに話し、時にはファンの掛け声に答える。このような状況下でファンは多幸感に包まれないわけがない。クリープハイプもファンもお互いに楽しいのだから。
このような多幸感というものに包まれている「今」に作られたアルバムだからこそ、丸くなったと思うのだろう。
少し話が変わるが、このアルバムには違和感を感じる部分がある。それは、作品中盤の「おばけでいいからはやくきて」、「イト」、一曲飛んで「陽」のところだ。タイアップ曲が並ぶこのパートは、他の楽曲とはテイストが違うのが感じることができる。タイアップ曲であるため、タイアップ先の要望が入るため完全なクリープハイプ楽曲ではない。このことによって、よそ行きなのが伝わってしまう。
だが、これも今のクリープハイプを表していると思う。
クリープハイプのフェスや自主企画でない対バンライブを考えて欲しい。この時の彼らは、どこかよそ行きであり人見知りをしているようにうつる。
MCの言葉遣いは固く暗い。またメンバー間の絡みも少ない。もちろんファンだけではなく時間が空いてるから観に来たという客に対して優しい態度をとる余裕がないのだろう。
このような様子が上で述べたタイアップ曲の雰囲気につながるのではないだろうか。
ここまでこのアルバムが近年のクリープハイプの全てであると書いた。
そこでぼくは、このアルバムが今まで苦楽を共にしてきたファンに向け作られたのだと感じる。
それは〈昔々あるところに独特の世界観を持ったバンドがおったそうな
変な声だと村人から石を投げられて泣いていたバンドを救ったのは
変な感性を持った変な村人だった
そうやってどうにかこうにか変な時代を変な村人に支えられながら
変なバンドは生き延びていった〉という歌詞である。クリープハイプ節と言わんばかりの身内ですらも皮肉対象にしながらも言わなければいけない言葉、ここでは「感謝」をファンに対して遠回しに伝えている。ここまで明らかにファンを歌った曲はない。そして、この歌詞を噛み締めていると、ワンマンライブ終演後に、「ありがとうございます」と言いながら頭を下げるクリープハイプが目に浮かぶ。
ファンに対して寄り添ったアルバムだからこそ新規リスナーや奇抜なイメージを持っていた音楽ファンもクリープハイプの持つ真の優しさ、愛情を感じることができ今作が受け入れやすくなっているのだろう。もちろん長くクリープハイプを追いかけている太客にとってはクリープハイプの「全て」と捉えて最高傑作と思うのだ。
『泣きたくなるほど嬉しい日々に』/クリープハイプ
01.蛍の光
02.今今ここに君とあたし
03.栞
04.おばけでいいからはやくきて
05.イト
06.お引っ越し
07.陽
08.禁煙
09.泣き笑い
10.一生のお願い
11.私を束ねて
12.金魚(とその糞)
13.燃えるごみの日
14.ゆっくり行こう
クリープハイプHP
栞MV